訓練もようやく本格的になってきた、というところで
姜維はしばらく魏史に会うことが出来なくなってしまった。

四度目の北伐が、決まったのだ。
今から丁度二ヶ月後。建興九年、春二月。
前回の北伐から数えれば、まだ一年たっていなかった。
今回の戦は、第一次北伐――あの、街亭の戦いの改正版と言って良かった。
しかし、先の戦いでは陽動の役目をした趙雲とケ芝の分遣軍が重要な位置にいたが、
今回はそうした陽動軍を派遣してはいない。
さすがに、全く同じ作戦をとってももう魏は騙されないということだろう。


キ山に魏延が送られ、司馬懿を徹底的に打ち破ったのだ。
戦果は首級三千、くろがねの鐙五千領、弩三千百張だった。
首として認められる物の中に、雑兵は含まれない。かなりの大戦果だ。

しかし、それが災いしてか、司馬懿が動かなくなってしまった。
攻めに出ているこちらからはどうしようもない。
持久戦ほど弱いものは無い。
孔明自ら開発した兵站機器、木牛を利用したが、やはり桟道を経由した兵糧の輸送は難しかった。
完全なる食料不足。
仕方なく、軍は撤退した。
撤退の中、追撃してきた魏五将軍のひとり、張コウを迎撃し討ち取ったが、今度の北伐も失敗したのだ。




「あと何年かな」
魏延が、独白のように言う。
隣で馬を進めていたが、姜維は何も言わなかった。

あと何年。
天の極みにたどり着くには、あと何年か。
あるいは、この国が戦い続けられるのは、あと何年なのか。
手が届かない、となどは思いたくなかった。
走り続けていれば、いずれ必ず届く。
否、走り続けていなければ、今この場所この国の存在意義自体も無くなってしまうのだ。
戦い続けなければならない。
早く終わるとは思っていないが、ゆっくりやればいいというわけではない。
孔明は来年で50を数える。
これの意味すべきことは大きい。
孔明ひとりに頼りきりなこの国家。
それが、次世代に変わらざるを得ない瞬間は、近づきつつある。
そのため人材を、育てなければならない。
本当は戦乱なぞ続けたくはないと思う。いきようのない矛盾だ。

戦を重ねる度に、国は疲れてゆく。ここ四年間で四回、国は疲労した。
今までもかつかつの中を更に切りつめて国を保ってきたのだ。
土地。人口。それを支える柱、政の人材すべてが足りない。


それらをすべて解った上で、孔明は姜維に話しかけた。
「あの子の教育は、続けなさい。姜維」
姜維は当然驚いた。これからは国の政に係りきりだろう、と覚悟を決めていたからだ。
姜維の心を先読みしていたかのように、孔明は続ける。

「先のように、あなたが完全に抜けてしまってはこちらも困りますので…
皆にも手伝ってもらいましょう。ただ、こっそりと」

孔明の話している意味がよく分からず、姜維は狼狽した。
孔明はそんな姜維を見てくすりと笑い、羽扇の羽の乱れたのを指で整えながら続けた。

「まあ、とりあえず連れてきなさい。
場所は…そうですね、こっそりついでに、私の部屋にでも。待ってますよ」

孔明は、切れ長の目を更に細めて微笑んだ。




戦後処理の激務の中、背中に後ろめたさを感じながらも 姜維は魏史の元へ馬を走らせた。
行く、と知らせていなかったためか、家の者はとても驚いていたが、
魏史は混じり気の無い笑顔で迎えてくれた。

「姜兄さん!姜兄さんがいないうちに、槍をすごく練習したんです!見て下さい!」

魏史は勇み足で庭に出ていった。
家の人の話によると、魏史は 毎日のように夜魏延の部屋に勝手に忍び込み、
武芸関連の書物を読みあさっていたらしい。
それはまだ構わないのだけれど、そのままそこで眠ってしまったり、
書物で見たことを試そうと、片付けもせずに庭へ急ぐのは困る、と従者達がため息をついていた。
つい昨日などは、家の中で槍を振り回して うっかり箪笥を壊し、家の者に散々叱られたらしい。
血の気の多いのは誰ゆずりだろう、と考えて、姜維は苦笑した。


そこまで暴れただけあってか、魏史の槍さばきは中々のものだった。
重い槍を振り回しているうちに自然と腕力もついたようで、全体に勢いと力強さも感じられた。
一仕切終わったあと、魏史が どうでしょうか、と聞いてきた。
姜維は考える振りをしてから答える。

「独学にしては、よく頑張ったね。上出来だよ」

魏史が手を握り締めて喜んだ。
だが、一瞬顔が苦いものをうつした。姜維の目を見て、魏史がおずと尋ねる。

「父上の息子として、恥ずかしくないでしょうか?」
「まさか。魏史は立派だよ」
姜維はきっぱりと言った。


それから数刻言葉を交したあと、さもついでのような口ぶりで
姜維は孔明から言われたことを魏史に伝える。
魏史は、先の得意ぶりなどどこへいったか、
まったく信じられないといった顔立ちで口をぱくつかせていた。
これからは自分からおもむく、というのは、まだいい。
元々そうだったのが何故か変わってしまっただけなのだ。
魏史がこたえたのは、最初に案内される場所が、
孔明の――蜀漢の政と軍事、共に最高責任を負っている丞相その人の私部屋なのだ、ということだった。

「あの、私、そんな。礼儀とか言葉づかいとか、全然知らないので、その…」

言葉の語尾が消え入りそうに小さくなっていく。
姜維は一回、ちいさく息を吸った。それから、かがんで魏史と視線を合わせ、魏史の両肩を掴む。

「別に、儀式ばったことをする訳じゃないし、そんなことに意味はないよ。
とりあえず、来てごらん。これからは往復が大変だろうけど、
少なくとも 最初に成都に行ったときよりは楽に着くと思うよ」
魏史は、全然大丈夫ではなさそうな顔で精一杯微笑んだ。




特に準備しなければならないことも無かったので、二人はすぐに出発し、目的地に着いた。
その成都内で、いちばん立派な建物。
先の北伐が終わってから、孔明は常にその宮廷内にこもるようになった。
孔明は先の北伐の結果を上奏したあと、むこう三年は戦をしない、と宣言していた。
それは言外に、次の戦こそ絶対にどんな失敗もしない、という意思表示だった。




最初、ここに魏史がやって来たときは 中庭で止められてしまった。
魏史は、宮廷の床を踏むのは初めてだ。

流石に緊張が限界に達したらしく、気の毒なほど体をこわばらせ、
なにも喋らなくなってしまった。
特に意味もなく、壁に施されたきらびやかな装飾品に視線をはしらせ、
廊下を曲がる度に目を白黒させている。
姜維は、あえて言葉をかけずに、彼から数歩前を歩いている。
魏史のちいさい歩幅に合わせてなるべくゆっくり進んだ。
姜維にとってありがたいことに、孔明の部屋に行く間 あまり人とすれ違わなかった。
余計な猜疑と質問を受けるのは正直うんざりなのだ。


孔明の従者には既に話が通っていたらしく、特に確認も無くすんなり中に入ることが出来た。
扉から向かって正面。業務用のおおきな机の上に、うず高く大量の書類が詰まれていた。
紙の束や竹簡の隙間隙間から、窓の黒い格子と灰色の空模様が見え隠れしている。
だが、その隙間からは目的の人物は見えなかった。
姜維は不思議げに室内を見渡す。
同時に、二人の右手側から ばさばさ、と何かをかきわける音が聞こえた。
二人の視線が自然にそちらに向く。

「姜維?ああ、思ったより早かったですね」

声は、孔明だった。
姜維が反応する。

「丞相!どうしました、そのような場所で!」

孔明は、椅子や胡椒ではなく床に座りこんでいたらしい。
おそらく先ほどまで座っていただろう側に、黒く汚れた硯と筆、軽く積み上げた書類を置いていた。
孔明はゆったりと立ち上がり、ぽんぽんと裾野をはたきながら 二人に申し訳なさそうな顔を向け、
業務用の大きな机についた。
「すいませんね。昔からの習性で、どうにも、長時間硯に向かうとなると堅い机と椅子では駄目で。
まあ、誰もいないときでないとやりませんが」
孔明は悪戯っぽく笑った。


孔明が椅子を薦めると、二人は席を並べて座った。
心なしか、魏史の緊張が和らいだように見えて 姜維は口の中でほっと息を吐いた。

机の上に積まれた書類をどすどすんと床に下ろし、
机上があらかた片付いたところで孔明は肘をつき、二人を交互に見ながら話かけた。

「さて、呼んだはいいけれど、何を話すか決めていませんでした。何かありますか?魏史」

話題を振られた魏史の身体が固まる。代わりに、姜維が独白のように言う。

「丞相、本当に、何故呼んだのです」
口を尖らせて呟く姜維を見て、孔明が面白そうに顔を歪める。
「私だって、とりとめのない話をしたくなることはありますよ。見て下さい、この書類の山。」
孔明が書類を指でぴんと弾く。
「ならば、私どもにお任せになって下さい。丞相は、何でもご自分でやろうとしすぎなのです。
私に貴方ほどの力が無いのは認めますが」
「いえいえ、これは勝手な私の癖みたいなものなのですよ。意地ともいえますが」
「しかし」
「それに、これは私の望んだことなのです」
こんこん、と扉の叩かれる音で会話は中断された。
孔明の従者が、三人分のお茶を運んできたようだ。

菓子は添えてないが、淡い金色のするお茶から、
どこかでかいだことのある柔らかい花の香りがしていた。
従者が下がり、孔明がそのお茶を数口飲んだあと、魏史に向き直して徒然に話した。
魏史の年齢。他郡との気候の違い。好きな遊びは何か。気になる人はいるのか。
最初に姜維を見てどう思ったか。今までどんな訓練を受けたか。
姜維が相槌をうつまでもないたわいのないことばかりで、
姜維はただ手の中のお茶の冷めるに任せていた。
極度に緊張していた魏史も 少しづつ会話に慣れ、
ほとんど常と変わらない話し方になっている。
ただ、何故か孔明は会話の中で 魏史の父親のことには直接触れなかった。


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