「姜維殿、中庭には行きましたか?」

蒋エンは、廊下ですれ違うなりぱっと振り向き、いかにも楽しそうに言ってきた。
質問の意味が解らなくて 姜維はしばらく呆然としてしまったが、
相手の顔にまるきり裏というものが感じられなかったので、とりあえず普通に答える。

「いえ、今日は行ってませんが…何かあるのですか?」

蒋エンは思い出し笑いを隠すように、袖を口元に持っていった。
彼は生粋の蜀人。あまり世渡りを必要としなかったので、感情を隠すのが上手ではない。
くすくす、としばらく笑ったあと、袖で口を覆いながら言った。

「中庭に…子どもが、来ているのです。 ──魏延殿の。」
「魏延殿の?」

姜維は言葉をおうむがえしにしてしまった。
かつて、――まだ魏に居住を構えていたころ――自分にすら、妻子というものはあった。
ましてや、自分よりも年長で、位も高い魏延殿なのだ。
いて当然というところだが―――魏延殿は、どうにも取っ付きにくい性格をしている。
自分自身に誇りを持って、皆と余り馴れ合おうとはしない。
そんな彼にも、矢張り皆と同じように家族があって、家庭があると思うと、
何だかおかしさがこみあげてくる。蒋エンがくすくす笑いを止めないのも、解るというものだ。


「――蒋エン、やめろ」
姜維が考えにとらわれていると、
不意に、後ろから低い声がした。狭い廊下にそれは良く通って、
すぐ近くで囁かれたような錯覚を起こした。
声の持ち主は、魏延文長そのひとだった。
蒋エンは魏延と目が合うと数瞬怯んだが、すぐににこやかな調子に戻った。
おそらく、魏延は怒っている訳では無く、照れも手伝って先の言葉を言ったのだと察したからであろう。
「『曹操の噂をすると曹操が来る』と隣国で戯れられていたが…実にそのとおり。
ところで、魏延殿。御子のことですが…今日は春といってもまだ冷えます。
外では可哀そうではないでしょうか?宮中に入れて差し上げましょうよ」
魏延は、蒋エンに一瞥もくれず、直ぐに答えた。
「いや、彼奴はまだ元服も済んではいないのだ。無位無冠の者を宮廷に入れる訳にはいかんだろう」
憮然とした表情。
蒋エンと魏延の間に挟まれる形になり、ただ立っていた姜維は、思わず聞きかえした。

「あの、入れないなら何故連れてきたのですか?」

魏延が姜維のほうを向いた。
姜維は、言動の失礼を咎められるものだと思って、無意識に身を固くしたが、
以外にも魏延は言葉どおり質問に答えた。
「先日私邸に行く時間が取れてな…そこで、久しぶりに会った彼奴が、
見にいきたい、連れていけとごねるもので……もう良いだろう、こんな話」
魏延は、自分の正面で、今人生最高に面白いことを思い出してるかのように
満悦の表情を浮かべている蒋エンを見て、話すのを止めてしまった。
流石に いけない、と感じたのか、蒋エンは襟元をびしと正す。

「いや、いや、失敬。しかし、愛い御子ではございませんか。
先刻中庭を通りかかった時には、鞠を壁に跳ね返らせて遊んでましたよ。
…そうだ、御子のこと、丞相はご存知で?貴殿から言いにくいならば、
私が行って丞相に入廷の許可を貰ってきましょうか?」
「いや、結構だ。…もう行くぞ。まだ鍛兵の途中なのだ」
言い終わるか終わらないかのうちに、さっと踝を返した。
こんなことをあの丞相に……そして万一、楊儀などに知られてしまったら、
どれだけ面白がられ、どんな表情をされるか。容易に想像がつく。魏延は表情でそう言っていた。

大股で立ち去って行く魏延を、姜維は小走りで追いかけて、横に並んだ。
「あの、魏延殿」
なんだ、とぶっきらぼうに返ってくる。
姜維は、怒るかもしれませんが…と前置きしてから言葉を続けた。
「中庭に、行ってきてもいいですか? その、魏延殿の御子に、会いたいので。」
振り向きもせずに魏延は言う。
「お前、今までの話をどう聞いて……いい、勝手に行け」
姜維は混ざりのない笑みを浮かべた。
「はい、では」
足を止めて 中庭の方向に向かおうとしたが、ぐいと肩を掴まれそれをとめられた。
肩を掴んだ魏延は、喉の奥にある何かを引きずり出すような口ぶりで言った。
「いや、待て。俺も行く。
あることないこと吹き込まれてはかなわん」


宮廷内は、広い。
中庭に行くには、少々歩かねばならない。
道中、沈黙が気まずかった姜維は、魏延に子供のことを色々訊ねたが、
返ってくる答えは生返事に近いものばかりだった。
「魏延殿、御子は男の子ですよね?」
「当然だろう」
「武芸の訓練は、させているんですか?」
「馬に乗せてやったぐらいだ」
「外見、魏延殿に似ているんですか?」
「いや、まったく」
途中すれ違う皆々が、不思議な取り合わせだと言わんばかりの目を向けてくるのは、気にならなかった。



中庭。
ぱん、ぱん、と壁に軽い物がぶつかる音が響いている。
目的の人物は、庭のほぼ中央に居た。
その子を見て、姜維が最初に思ったことは───
魏延殿は、鏡を見たことがないのか、だった。
髪の質がすこし違うが、顔だち──特に目つきや口元などは
魏延が幼い時はこうだったろう、と思わずにはいられなかった。
その子は、こちらの姿を見つけるなり、白い息を弾ませて走り寄ってきた。

「父上!」

幼子特有の、高い声。見たところ 七,八歳くらいだろうか―――

「父上、お仕事はもういいのですか?
…こちらの方は?」

少年は、父親から側にいる若者のほうに視線を移した。
姜維は、自分よりかなり低いはずのその視線に戸惑ってしまった。
まるで、小さい魏延殿に見つめられているようだ―――

「あ、私、姜維といいます。姜伯約」
「姜――あ、存じてます。貴方が、あの…。思っていたより、ずっとお若いです…」

少年は白の多い瞳でこちらをじっと見つめ、たどたどしく言葉を繋げている。
その様子を見、上から父親が厳しい声で制した。

「おい、名乗るときは自分から名乗れ。失礼だぞ」

姜維ははっとして、急いで言った。
「そ、そんな魏延殿…別に、失礼なんて…
それに、私が勝手に」姜維の言葉に被って 少年が言う。
「あ、す、すみません!」
一呼吸おいて。

「僕…いえ、私、史といいます。魏史です。字はまだありません」

大人とは明らかに違った高い声が、新鮮で心地よく響く。

「魏史…良い名前ですね」

姜維は、感じたとおりのことを言った。
魏史は、とても嬉しそうにして二人を遊びに誘う。
魏延は、ここにはついでに寄っただけだ、もう行かなければならない。
という様なことを言ったが、
姜維は、自分は時間が空いているからここで一緒に遊んでいっていいか。
と少年に尋ねた。
魏史は今にも体が跳ねだしそうに喜んだ。



「魏史、家はどこにある?」
姜維は鞠を蹴りながら聞いた。
結局他に何も道具がなかったので、二人対面式で球を蹴りあい遊ぶこととなった。
先刻まで同じようなことを魏史はやっていた訳だが、一人きりと二人では心情的にもかなり違いがある。

「家は益州の西郊外にあります。馬で行くと丸一日くらいかかってしまいます。
ここに来る間、途中までは 父上の横について駆けてきたのですけれど、
僕があんまり遅いので…半分くらい進んだ時からは父上の後ろに乗せてもらって来ました。
馬は家の庭でちょっと乗ったことは有ったんですけど、
遠乗りは初めてで…すこし、かなり疲れました。お尻が今でも痛いです」

姜維が再び ぱし、と球を蹴る。
姜維は顔に出さずに思った。

遅くて腹立だしかったというより…ただ、疲れきってしまった彼方を気遣って
後ろに乗せたのはないだろうか。まあ、魏延殿の考えなのだから解らないけれど――

すこし強く蹴りすぎてしまい、魏史は後ろに転がった鞠を追いかけた。

ちいさい背中。童から意志を持った少年に変わりゆく年齢だ。
自分も、数年前まではこうだったはずだ。あらゆる可能性に満ちた、未知なるもの。
漢王室への羨望はあったはずだった。
まわりの環境が固まりすぎ、それに反発してみたいという気持ちも。
蜀漢に亡命しようと思えば、出来たかもしれない。
しなかったのは、否、出来なかったのは、母親が居たからか。
中華の地では、血の繋がりを何よりも尊ぶ。
だが、そんな理屈はあくまで根底の問題であって、ただ単純に母親が好きだった。
父親が戦で亡くなって、たったひとりで私を育ててくれた母。
乱世の中では、道端の小石ほどにありふれた話だとは思う。
でも、私にとってはたったひとりの母なのだ。
母親の背中を見て育ち、いつか母親に
貴方のお陰で私は立派に育ちました。と胸を張って伝えたかった。
もう、かなり、会っていない。
あるいは、もう会うことは叶わないかもしれない―――。
魏史がやっと元の位置に戻り、さっきよりもやや強く鞠を蹴った。返しながら姜維は言う。

「お父さんは、好き?」
魏史は間を入れずに答える。
「はい!僕の誇りです!父上は、蜀漢いちばんの将軍です!!」

姜維は、魏史と同じように微笑んだ。






時間は過ぎ、夜になった。
姜維は、いつもと同じように書斎に行き、
調べ物の資料を手一杯抱えて部屋に戻ろうとしていた。
すこし多すぎたか――視界が紙で覆われてしまっていた。
私房まではそれほど遠くないので、感覚で進める。
そう姜維が思ったせつな、何か大きなものにおもいきりぶつかってしまった。
書簡の山がばらばらとこぼれおちる。

「ああっ!」

姜維は慌てて拾おうとしたが、今の声が、自分ひとりのものではなかったことに気付き顔をあげた。
ぶちあたってしまった、大きくて、がっしりとしたもの―――

「ぎ、魏延どの?」

姜維は目を疑った。しかし、はっと気付き、非礼を幾重にも詫びた。

「いや、かまわん。俺がほとんど待ち伏せていたようなものだったからな」
魏延は、落ちた書簡を拾い集めながら言った。
そんな、結構です、と姜維は言い、更に急いで書簡を取りまとめた。

「お前の部屋に行ったら、ここにいるといわれてな。書斎に着いたと思ったら、当人にぶつかった」
魏延はにやりと笑いながら言った。こちらが困惑するのを楽しんでいるように見えた。

落ちた物をあらかたまとめ終えた姜維は、さっと立ち上がって自室の方向へ歩いた。
「従者を出して下されば、私の方から行きましたのに。わざわざ…」
普段の彼の態度や評判などからは、およそ違う行動だった。
魏延はぼそぼそと言う。
「いや、話したいことがあっただけだからな。ごく個人的なことだ。国家とは関わりない」
二人は部屋に着いた。宮廷内に仕事用としてつくられた場所なので、余分な装飾は付いていない。
だが、一介の将軍ともなれば、流石に部屋は広い。
姜維は、隅の散らかった机の上を無造作にかきわけ、先程の書簡をすべて乗せた。
隣の胡椒に魏延はさも当然のように腰掛ける。
姜維は従者を呼んで酒を持ってくるように促したが、
魏延が そんなに時間はかからないから酒はいい、と断った。
姜維は、魏延の隣に腰かけた。

「大体予測は付いてると思うが」
魏延が話をきりだす。
「史のことだ」
はい、と姜維は笑って言った。

「奴は、どうだった?何か無粋なことでもしなかったか」
「いえ、そんな。とても利発で素直で、良い子ですよ。将来が楽しみです」

魏延殿から棘を抜いたような性格だ、という言葉を姜維は飲み込んだ。
魏延は そうか、と頷き、足を組み直す仕草をとる。
「まだ武芸の訓練は受けていない様ですけど、早すぎるということはないのでは?
魏延殿の血を受けてるんです、きっと立派な武人になれますよ」
「そのことなんだがな」

魏延が身を乗り出した。姜維は、思わず半身を遠ざけてしまった。
彼の彼らしさを際立たす三白眼の瞳にみつめられるのは、どうにも慣れようがない。
本人にその気が無くても、睨まれているように感じてしまう。

「本来なら俺が稽古をつけてやらねばならんのだが、
蜀漢の屈強な兵士ならまだしも、子供というものは俺には扱えん。
趙雲殿に頼もうかと思っていたのだが…先の北伐の直後に亡くなられてしまった。
今の蜀漢に武芸にあかるい者はさほど多くない」
魏延は時々目をそらしながら言った。
この気位の高い蜀漢陏一の将軍を、こんな眼前で見たのは初めてだった。
「姜維、お前は蜀の臣中ではかなり若い。子供に近いともいえる―――
これは決して命令ではない、俺の勝手な頼み、断るも自由だ」
魏延の動きが止まった。一際太い声で言う。

「姜維、史を育ててやってほしい」


「はい」
「―――」

あまりにもあっさりと返事をしてしまった為、魏延のほうが愕然とし、もう一度聞き返してきた。

「お前、そんなにあっさりと返事していいものなのか?一日二日で済むことじゃないぞ。
少なくともお前自身の修練の時間を割いてしまう」
「だから、はい。やらせていただきます。
私なんかでよろしければ。――光栄、です。」
そこまで言うと、魏延はようやく安心した様子で、
姜維の肩を強く叩き(かなり痛かった)、天井を仰いだ。

「そうか、お前が。―――有難い。自分で頼んでおいて何だが、まさか要れられるとは思わなかった。
…お前には 残してきた妻子のこともあったしな、頼みづらかった」
今度は姜維が愕然とする番だった。まったく、考えの外にあったことを引っ張り出されてきた。
なるべく想い出さないようにしよう、元々愛情など無いに等しかったのだから、と
漢に降ったとき、考えもした。だが、いつの間にか、思いもしなくなっていた自分に驚いた。

そんな姜維を見て、魏延は別のことを思ったらしく、労いの言葉をかけてきたが、
姜維はいえ、それはいいのです、と苦笑混じりに答えた。

或る日突然 魏から蜀漢に降り、新参者というのに丞相に並以上の信頼と期待を受けた。
そんな自分を、周りは―――特にこの人は、絶対に好んではいないだろう、と思ってきた。
だが、今、その人自らに、自分の次世代を託されたのだ。
感激に、身がふるえた。やっと、国に認められた、とすら思う。

そのあと魏延は、史は私宅にいるからお前の時間の空いたときに呼び出せばいい、
何かそそうがあったら遠慮なく叱りつけてやってくれ、等
数点を話して部屋から出ていった。姜維は、後ろ姿をしばらく見送っていた。





数日後、魏史を呼んだ。
初めて事情を聞いたらしく、魏史は心底感激してくれた。
父親に似た上がり気味の瞳をぱちつかせ、信じられないというような意味の言葉を
何回も口の中で転がしたあと、姜維の手をとって深々とお礼を言った。
暖かい指先が、姜維にはむずがゆかった。

当然、経緯を丞相たちにも伝えねばならなかったので、姜維はその旨を魏延に話したところ、
彼は一瞬何かに詰まった顔になって、それからふっと諦めたように
仕事以外では丞相に会いたくないな、と呟いた。




「ほう、それを魏延に?自ら?」
孔明は、話をあらかた聞き終わると、まずそれを訪ねた。
「そうか、彼が。なるほど。――繰り返すことになるけれど…まさか伯約が了解するとは。
それなら、私も瞻を任せれば良かった。あいつに先を越された気がする。」
孔明は冗談混じりに笑って言った。
姜維は何だか恐縮してしまって、ひたすら照れていた。

そのあと孔明は、子供にかまけて自分のことを怠らないように、とだけ言って羽扇をふわと舞わせた。
姜維は短く はい、それだけは、と答えた。
窓から漏れる昼の光が孔明を縁取って、孔明の疲れた表情を覆い隠していた。




三回目の北伐が過ぎて、蜀漢は今、次の戦に向けて備蓄を蓄える段階にあった。
諸将は漢中の本営を離れ、首都に戻って環境の安定を計っていた。
こういう言い方は悪いかもしれないが、魏史の訓練には都合がよかった。
まず何がやりたいか、と魏史に聞いたところ
馬をのりこなせるようになりたい、と答えたので、丞相に頼んで適当な原野を使わせてもらった。

だが、最初はその原野を使わず、ひたすら遠乗りをした。
馬と呼吸を合わせるは、まず長時間共に過ごすことだった。
魏史の使っていた馬は、成る程魏延が選んだ馬らしく、かなりの良馬だった。
魏延の馬は、闇に溶けこむように真っ黒な毛並をしているけれど、
魏史の馬は対極に真っ白だった。たてがみにやや淡い黄色が混じり、撫でるととても柔らかい。
軍馬とは思えない穏やかな目つきをしていた。
魏延は自分の馬を 黒と呼んでいた。自然に、魏史は自分の馬を、白と呼ぶようになった。

その馬の世話も、すべて魏史にやらせた。
訓練は、兵たちと同じように、厳しくした。
魏延の子供だから、という遠慮は不要だった。否、だからこそ、厳しくしていた。
優しくしても、意味はない。戦場で死なない為には、訓練で厳しく鍛えておくことだった。
ただ、解らないことがあったら何でも聞いていいことになっていた。

「姜兄さん。ここの草、緑と茶色が混ざってます。どっちを食べさせればいいんでしょう?」

魏史は、姜維のことを兄さんと呼んだ。
古参者ばかりの蜀漢の中で、姜維は際立って若い。魏史とも、年がまだ近い。
先ほどと矛盾しているけれど、そういう優しさは欲しい、と姜維は思っていた。

魏史は強い子だった。
多少辛く当たっても、泣き言を言わず黙ってついてきていた。
鍛練の中、速度を下げれば当然遅れて、速度を上げすぎれば馬は疲れきって完全に動かなくなる。
通常は経験と慣れで身に付けていくしかないのだが
姜維は魏史に対してほぼ無理矢理、体で覚えさせた。
途中、魏史は加減が分からず白馬を潰しかけたが(直前で姜維が止めている)
数ヶ月の後には、 魏史は一日を通して姜維の後ろにぴったりと着いて来れるようになっていた。

「馬の調節は難しい。急げば急ぐほど、馬の限界を忘れてしまいがちになる。
そうなると、かえって相手には追い付かれる」
孔明から借りた原野で、馬に草を食ませながら姜維は言った。
魏史はまだ背丈が充分ではないので、白馬に付けた具足も特別性だった。
魏史はそれを恥と思っているらしく、しきりに姜維の具足と自分の身長の大きさとを比べている。
「はい、よく解りました」
魏史が答える。

「完璧とはいえないけど、これでまず馬に乗ることだけは大丈夫かな。
次は武芸だね…魏史、武器は何を使ってる?」
「武器、ですか?いえ、まだなにも」
「なにも?魏延殿――父上様は、何も教えてくれなかった?」
「北での戦で、ほとんど家には」
魏史が淋しそうに顔をつくった。

姜維は思う。
そういえば、馬に少し乗せただけだ、とは言っていた。
けれど、それにしたって、すこし無造作すぎやしないだろうか。
磨けば必ず光るであろう素質を持った原石を、なにもせずに放っておくとは―――

理不尽な感情。
本当は、自分の子供の代にまで、乱世を押し付けたくない、否、押し付けてはいけないのだ。
疲れ続ける国。戦に明け暮れ、謀略を廻らせ、他人を猜疑する日々。
自分以外の人間を、完全にを信用することが出来ない。
それは、限り無く辛くて、さみしい、と思う。

魏史が、白のくつわを取って夕焼けのするほうに歩いている。
地平まで続く原野が、一面に赤く染まる。姜維と魏史との影が、長く伸びて重なっていた。

あの地平の果ての 更に果てまでを、天下と呼ぶのか。
それは、一体どんな大きさなのだろう。
姜維は赤い光に目を細めながら、ぼんやりと思った。






孔明に場所を借りたことによって、事が皆にも伝わってしまったらしい。
ショウエンや董允などは、始めは茶化し気味だったが、
姜維が真剣に取り組んでいるということを理解すると、嬉しそうに
今後を楽しみにしているよ、と声をかけてきた。
一人やっかいなのは楊儀で、今までも何かにつけて魏延に皮肉を浴びせていたが
これは然りと言わんばかりに、あることないこと皆に吹き込み、
更に魏延にも もっぱらそのことでつっかかった。
魏延はすべて無視していたが、ある日ついに切れてしまって、
宮廷内でひと騒ぎ起こした。

その場は何とか費イが収めたものの、
戦の前で国中が緊迫しているのだ、何が火種になって何が起こるか解らないのだぞ、
と 魏延と楊儀は孔明に激しく叱咤されてしまった。

姜維もやはり居心地が悪くなってしまい、孔明に、
止めたほうがいいでしょうか、とおずおずと尋ねたけれど
孔明は微笑って、 いえ、続けなさい。ただし、今度はあまり大っぴらにせずに、なるべく、こっそりと。
と言っただけだった。



わざわざ場所を借りるのはよくない、と悟った姜維は、
魏史の家―――つまりは、魏延の私宅になるのだが―――に、直接行くことにした。
成都からは、物凄く遠いという距離ではない。大体馬で半日といったところだった。
宮廷内でのいざこざを知らされてない魏史は、直接行くと聞いたとき、
当然不思議そうな顔をみせたが、すぐにその事実を飲み込んだ。
「やった、姜兄さんが来てくれるの?すごいなぁ!」
ひとしきり喜んだあと、あ、急いで部屋を片付ないと!と、思い出したように付け足した。

感情を素直に表に出して喜んでくれた魏史に、口では
あくまで訓練だよ、と言いはったものの
心に沸き上がる暖かい想いを顔に出さないようにするのが精一杯だった。




孔明にこっそりと行き先を告げて、魏延の私宅へ行った。
道が解らないので、魏史のあとをついていく形になったけれど
姜維が魏史に追いついてしまう、ということは全く無かった。
むしろ、護衛として着いてきた兵たちのほうが遅れてくるという状況だった。
あらためて、姜維は天性の才能というものに感嘆した。

今の魏延とほぼ同じ階級にかつて位置していた、
今は亡き趙雲の私宅を 姜維は訪れたことがあった。
趙雲の家は、質素だった。
余分な財を蓄えず、妾も置かず、必要最低限の暮らしが出来ればいい、という雰囲気をかもしだしていた。
趙雲本人の、清潔な武人たる人柄がよく現れた場所 という印象が強い。
その趙雲の家と魏延の家は、作りも、大きさも、装飾も、なにもかも全く違っていた。

まっ赤な門、扉、壁。
窓や格子はほとんどすべて金で縁取られ、所々に龍や虎の文様がほりこまれている。
ぐるり見渡した限り、かなりの敷地だった。
当分は敷地内でも案内が必要だな、と姜維はひっそり思っていた。
だだっ広い庭園の半分を覆い尽すように、立派な厩が作られていたのは、姜維には印象的であった。

「ここ、こっちです!」

最初に、魏史の部屋に招待された。
館全体から続いた装飾や華美な家具はあるが、置いてあるものなどは
魏史くらい年齢の子ならまあこんなものだろう、といった感じのする 平凡な部屋だった。
初歩的な兵法書が無造作に積んである以外、戦の臭いのするものは一切無い。


姜維は、携えてきたものを魏史に手渡した。
魏延の、昔の槍。
数日前、魏史の武器に関して 姜維は魏延に相談を持ちかけていた。
そこで、魏延は自分の昔使っていた槍ならばやる、と言った。
元々姜維は、魏史が武器を持っていない旨を聞いたときから
自分の物をあげるつもりだったが、自分が武具を蓄えていたのは現在魏国の領地内で、
漢に降った時、ほとんど置き忘れてきてしまったことを思い出し、途方にくれていたのだ。

喜んで魏延の申し出を受け、二人で魏延の昔の武器を検分した。
その中で一番短くて軽いものを選んだけれど、魏史にはまだ大きく、やや重たそうにみえる。
それを両手で受け取ると、魏史は見よう見まねで構え、振り回してみせた。
やはりへんだな、という表情を作りながらも、
心の底は熱くたぎっているだろうことが容易に瞳から読み取れた。

魏史は姜維にお礼を言おうとする。
だが、姜維は手を前に出してそれを遮った。

「お礼は、父上殿に。それは父上殿のものでしたから」

魏史は顔をすこし下に傾ける。

「でも、父上とはいつ会えるのか解りません」
「いつでもいいではないですか。会ったときに言えば。
父上殿は忘れるようなお方ではありませんよ」
「そうですね…はい、そうします。」

魏史は姜維に笑いかけた。
姜維も同じように微笑った。




/進→