それはある日の夕方の事。
夕日は辺りの山を燃やし、鳥達は小さな点になって自分達の寝床へ帰る頃。
一人の男が城門を出て行った。
彼の名は楊儀、字は威公という。
ここ蜀の国の丞相、諸葛亮の側近である。
しかし彼の顔には少し疲れの色が見える。
無理もない。
この国の人材不足により、彼にかかる任務の量も多い。
彼はずっと任務を完璧にこなしてきた。
その体にかかる負担はさぞや大きかっただろう。
加えて、対人関係の問題もあった。
最初仕えていた上司と諍いを起こし、今の蜀に身を寄せた。
当時の主に気に入られたが、また上司と仲が良くなく左遷されている。
その後丞相の取りなしで中央に戻ったが、今度は同僚と仲が悪いという有様。
その仲の悪さは凄まじく、「水と火」とも喩えられるほど。
そのせいか最近は豊頬の美少年だった頃の面影は薄く、痩せ衰えたように見える。
彼は生欠伸を一つすると、ある方向性をもって駆けていった。


どうやら帰路につくようだ。
彼の足跡を追ってみよう。


向こうに大きな屋敷が見える。恐らく彼の私邸だろう。
美しく静かな林を背景にそれは立派にそびえている。
彼はその屋敷の中へ入っていく。
……と思いきや、彼は後ろの林の方へ入って行った。


墨をこぼした夜空に星達は瞬き、明るい月が飾られる頃。
彼はあの静かな林の中にいた。
聞こえるのは木々の間を駈け行く風の音、そして彼の息の音だけ。
目の前には大きな池。その水面に立つ波が絶える事はない。
風の生まれる場所。ここはそのような感じをさせる。
日々に絶えず、風はここにぞ生まれ出づる。
彼が感じていた風もここの生まれなのかもしれない。
その風は水面(みなも)に遊び、絶えざる波を作る。
揺れる水面、それは自分の心なのかもしれないと彼は思う。
波打つ水面の映す姿は常に同じように見えるが、同じものはない。
今、それを見つめる彼の顔も刹那に変わる。

落ち込んだ時、辛くなった時に彼はここに来るようだ。
なぜならここは彼に故郷を思い出させるから。
彼の故郷は襄陽(じょうよう)、近くに流れの渦巻く湖があったと言う。
彼は時々その池と故郷の湖を重ねている。
そして愚痴を言う。
今の日々では持てない安らぎを持って。
「魏延のヤツったら、またあ〜んなことやこ〜んなことを……」

そんな故郷の場所に似た所にいるとつい昔の事を思い出してしまったりする。
あの日々を――

柔らかい風が翔け行く。
「兄さん」
大きな優しい背中に駆け寄る。
その手はいつも彼を優しく包み込んだ。
傷心もきれいに洗い落とさせ、すぐに治してくれた優しさ。
ずっと仕舞っておきたいあまりに懐かしく優しい思い出。その中の登場人物。

楊慮、字は威方。
彼の故郷、漢水の南の第一人者。
若くして徳行があり、弟子は数百人を数えたという。
諸公が礼を尽くしても決して出仕しなかった人物。
人徳の良好な名士。
失われた未完の大器。
そして彼の兄でもあった。

――兄さんは、もういないんだ。
死んだんだよ、ずっと前に。

そう、あの日、兄は死んだ。
彼は兄の亡骸の傍らでずっと泣き崩れていたのを覚えてる。
あまり長い事離れないので親が無理矢理離したほど。
しばらくの間立ち直れなった。
何か自分の大切な一部を失ったように感じた。失ったものは大き過ぎた。
風が奏でた鎮魂歌。それは兄のためだけではないのかもしれない。

それから彼を取り巻く世界は変わっていった。

彼は独りだった。
彼の周りは人の影があるだけ。
たとえそれが好意を持っていても、裏では必ず何か悪態をついていた。
彼の周りには彼の求める「人の心」が無かった。
さらには到底及びもしない兄と比べられ傷ついて虐げられて。
外の人、及び兄にその捌け口を向ければ楽だったのかもしれないができなかった。
逃げ場を失った大きな痛みの荒波は彼の内壁を削りとっていった。

彼の事を分かってくれる人間などもうどこにもいないと思った。
彼の内面を誰が知ろうか。
彼を突き動かしていたものはただ名誉欲、自尊心だけではないと。
それは……羞恥心に近いもの。
才能、ひいては意味ないものと思われる事、自分で思う事を恐れ、
そうではないと必死に周囲に主張する。
自分には存在価値があるのだと周りに知らしめるため。
自分という存在がここにあると分からしめるため。
ひとかけらの才能を振り回し、回りに自分を認めさせ、
ただ生まれたての赤子のように「自分」という存在を主張するだけ。
それが彼の本来の姿なのだ。
真実かどうかは分からない――たとえ自分自身の事であっても。
ただ彼はそう感じたのだ。それだけの事。

そんな事を思い出しているうちにだんだん視界がふやけて、揺れて、ぼんやりしてきて……

彼は慌てて飛び起きた。
「あらら……」
どうやら寝てしまったようだ。辺りはもはや闇ではない。
目を上げて見てみると空は虹色。東は桃色、西は紺(こん)色に輝く。
風は絶えず生まれて、水面には相変わらず揺れる。
その波の一つ一つが違う色に染められていって池全体に広がっている。
それはあたかも、水底に眠る虹のよう。

「あなた……、やっぱりここにいらしたんですか」
呼びかけたのは夫の事を心配してきた彼の妻であった。
荊州時代から彼に付き従ってきた彼女は、彼のよき理解者であったのだ。
彼が苦悩を語るのにも喜びを語るのにも、彼女はいやな顔をせず聞き手となっていた。
彼が悩んでいるなら彼と一緒に考えてやり、彼が喜んでいるのなら彼と一緒に喜んだりもした。
そして彼がずっと背負ってきた重みを常に支えてきたのだ。
今の彼があるのも彼女の助けがあればこそと考えてよいだろう。
「お前、ちょっとこっち来てみなさい」
夫の招きに答えて彼女は横に座った。
「綺麗だろう?」
「こんな景色があるなんてね」
彼女は頷いた。
その横で彼は思考の中へ入っていった。
確かにさっきはこの水面を自分の心に喩えたが果たしてそれは正しいのか。
自分の心はこんなにも美しいものではないはずだ。
考えれば考えるほど、ほら、よく見えてくる。自分の汚れた心が。
果たしてこんな汚れた心がこんなにも美しく輝く事ができるというのか。
それともこの心すらもこのように輝かす事のできる光があるというのか。
――わからない。
わからない――

「あなた、また考え事?」
彼の顔を覗き込んでいた夫人がわずかに呆れた顔をして言う。
「すぐ考え事をする。それがあなたの悪い癖。
 でもそれも考えようによってはよい所になる。
 自分を責めないでね。
 あなただって、よい所はたくさんあるもの。私はずっと見ていた。
 現にあなたを必要としている人はたくさんいるでしょう?」
「しかし……」
彼の中に色々な人の面影が浮かぶ。
中には思い深いものもあった。しかし、掴もうとすると解けて消えて逝く。
まるで彼自身がその像を結ぶ事を拒むように。
彼女の言う事ももっともなのだが、彼はいまいちそれが掴めていないようだ。
「私はあなたにずっと付いて行く事しかできません。
 しかし、あなたのために力を尽くしましょう」
「……ありがとう」
なんとか紡ぎだした言の葉。
一筋の風が駆け抜けた。

やがて日は昇り水中の虹は再び旅立った後。
彼らはまた日常の中に戻っていった。
何時かこの世の夜が明けるまで、いや、たとえ明けたとしても、ここに風は止む事はないだろう。この水面が静まる事もないだろう。
そんな事を考えながら。

彼の事をずっと見ていたのは白く光を失った月だけでした。




















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威天様より承りました、楊儀君の小説です!!!!!!!!!
は、拝見いたしておる最中、な、な、な何度顔が綻び パソコンにむかって悶絶し
もんどりうったか覚えがございませぬ…!!!
他人に見せられる姿はしていなかったと思います(汗笑)

よ、楊儀君が!!!!!!!!
愛しの楊儀君がここにいる!!!!!!!!!

もう、もう、優しさと和やかさ中には悲しみが含まれている、
というのをがしがし感じまして、誰でもいいから思いっきり抱きしめたくなるような、
そんな気分にさせていただきました。

楊一族って 物事をずばっと言うお方が多いですよね。
楊儀君もその最もたるお方かと。
北伐の最前線で孔明に常に付き従った書記官…vすてきだ…。

楊儀君伝で密かに(というかすごく)気になっていた、お兄様が登場するとは…!
も、盲点をつかれました!
お兄様、早世してしまったのがとてもとても惜しまれます。
歴史にIFは許されないですが、もしもをお兄様がご在命だったらば…
楊儀君の北伐での負担が軽くなったかも。
「人間関係がうまくいかない!」っていう楊儀君の憤りを
優しく受けとけてくれる存在になったやも…。
そうするとストレスとか態度も変わってきて、魏延と対立起こして死なせることも
なかったかも!
…うわぁ、お兄様、とても大切な存在に思えてきました。
帰ってきてお兄様!(叫)


私めの勝手な思考なのですが、この作中に出てこられる「妻」っていうのは、
楊儀君が庶民に落とされても付き従って、
で、最期を看取ったあと 赦されて成都に帰還した、っていう、
あの、奥様ですよね?
う、わぁぁあああぁぁぁああぁぁあああ イイ…!
いい奥様だよ、楊儀君…!!!(震)
こ、こんなお互いを理解し合っている夫婦様に、いずれ惨劇が降りかかると思うと…
うぁあぁああ(泣)
ダ、ダメダ 奥が深いですね、この小説様は…(ガタガタ)
楊儀君について、とても史料を検分しつつ熟考なされておられます…vv
こ、こういう噛めば噛むほど味の出る小説様は大好きです!!!!!!!!!

楊儀君について更に考えることを覚えました。ありがとうございます!
そして威天様、このような素晴らしき小説をありがとうございます!!