太陽に叛く者


僕は太陽に背を向ける。
とうに沈んだ月を追って
還らぬものを探しつづける。
―それは『いい子』の僕の最後のわがまま―






目の前の床に赤い染みが広がっていく。それをぼんやりと見ながら姜維は思う。

―いつから…私はこんなに諦めが悪くなったんだろうな…―

―今更、こんなことをしたところで一度決まった流れを変えることなど出来はしないのに…―

そう、もう決まってしまった流れだ。
自分にそれを変えることなど出来はしないし、共にそれを成したいと思った人達も既に亡い。
それなのに何故自分は抗おうなどとしたのだろうか。

―その結果が、これだ―

改めて目を床に落とす。彼の体から流れ出た血は既に大きな血溜まりをつくっている。
不意に、笑い出したい衝動にかられた。体は素直にそれを実行しようとした。
しかし、受けた傷は彼の体にそれすらも赦さないようで、表情を動かすこともできない。

「丞相…」
彼の口から、掠れた声が零れた―

幼いころから、『いい子』だと言われてきた。いいつけをよく守り、母を大切にするよい子だと。
武術に励み学門を学び、故郷での評判は上がり、やがて仕官をするようになった。
でも、気付いたのはいつのころだったろうか。
それらが『自分自身』という代償のもとに成り立っていたことを。






調練用に先端に布を巻いた棒。それがぶつかり合う軽快な音が調練場に響き渡る。
多くの人だかりのその中心で、お互い一歩も退かぬ様子でそれを振るっているのは二人の人物だ。
しばらくの間打ちあいが続いた。しかし

―カッ―

一際大きな音と共に歓声が上がった。
乾いた音をたてて棒の一本が弾けとぶ。
棒を弾きとばされた方の人物は棒を弾いてまだ余りある衝撃で倒れ込む。
「負け…かぁ…」
倒れこみ、後ろに両手をついたままの姿勢で姜維がつぶやく。
「そうだな」
もう一方−勝者は口許に軽い笑みを浮かべて言った。
「は〜」
姜維が大きく息を吐く。
「やっぱり私は文長殿は苦手です。なんかやりにくい…」
やや不機嫌な顔でそう言われた魏延はふん、と鼻をならし
「戦場ではそんなことも言ってられんぞ」
といいながらいつの間にか周りに出来ていた人だかりを散らしだす。
「何をしている。さっさと戻れ!」
そう言って未練がましく居残ろうとする見物人を全て散らしたあと、
魏延が先程とは打って変わった表情で近づいてきた。
「…どうしたんですか?」
魏延の様子に気付いて姜維が訝しむ。
「お前…あの時、諦めたな」
「え?」
なんのことだかわからず、思わず聞き返す。
「さっきのことだ。さっきの調練、その気になればまだ粘れただろう」
「…」
姜維が考え込むような表情を見せる。
「お前は俺が苦手だと言ったな。当然だ。戦では俺はどんなことがあっても諦めない。
すぐに諦めるお前じゃ勝てんだろうな」
「そう…なんでしょうか…」
そう言いつつ俯く。
その時だった。
「ここにいたか」
突然後方から落ち着きを感じさせる声が掛かった。二人が振り返る。そこには見慣れた顔があった。
「あ…子龍殿」
そこにいたのは五虎将軍最後の一人。蜀の柱ともされる人物の一人だった。
「どうしてここに?」
「こちらの調練の様子はどうかと思ってな。それとちょっとした用事だ」
そこまで言うと一度言葉を切る。
「まあもっとも…」
そう言って趙雲は姜維の方をちらりと見た。
「今は兵士たちの調練どころではないことをやっていたようだが…」
別に趙雲にそれを咎める気はなかったのだが、
その言葉を聞いて魏延はあさっての方向へ視線を逸らし、
姜維は内心相当動揺しているのが目に見えた。
「別に責めているのではない。たまにはそういうこともいいだろう。いい刺激になる」
苦笑しながら趙雲が言う。
「あ!子龍殿、そういえば『ちょっとした用事』って?」
姜維が少々強引に話題を転換する。
例えばこの相手が魏延だったらこんな手には乗らず、
暫く姜維をからかいもしただろうが趙雲はそのようなこともなく、
「そうだ姜維。孔明殿から言伝だ。『少し来てほしい』だそうだ」
と、普通に用件を告げた。
「丞相が?」
そう言うと姜維は了承を求めるように魏延の方を見た。
「かまわん。行ってこい」
と、意図を心得ているように魏延は答える。
「では、ちょっと失礼します」
ぺこりと頭を下げ、姜維がその場を後にした。



彼の姿が見えなくなるまで見送ったあと、趙雲がおもむろに切り出した。
「どう思う?あいつは」
「どう思う、とは?」
「言った通りの意味だよ。一軍の将として、
充分にやっていけるか、私達が居なくなった後、この蜀という国を支えられる一人になれるか」
「…あいつは諦めるのが早い」
魏延が無表情に答える。
その答えに、なぜか趙雲は笑いを漏らした。
「何がおかしい?」
「いや、お前からすれば世の中の人間は大概諦めが早いと思えるのだろうと思ってな」
「フン…」
魏延はふて腐れたように横をむいた。
趙雲はそれを見て笑いを引っ込めると真面目な表情になって言った。
「でも、確かに前はそうだったな…」
魏延が趙雲の方に顔を向ける。
「私もあいつが降ってきた直後はそんな印象もうけた。でもな…」
「あいつはここに来てから変わってきた。少なくとも私はそう思う」
「私はあいつが将来の蜀を支えるものの一人になってくれればと願っている。
もっとも、あいつがそう思ってくれるかは分からないが…」
「…あいつは真面目すぎる。正しい方向へ進めばいいがもし誤れば…」
そう呟くようにいい、魏延は虚空に視線を向けた。趙雲もそれに倣う。




彼等の頭上には綺麗に晴れ渡った蒼天が拡がっていた。




「嫌です!貴方が…貴方が死ぬなんて…」
―まだ、何もやりとげてはいないのに。私にとっては始まってすらいないのに―
牀台に横たわる人物に向けて、姜維は言った。
「嫌です、と言われてもな…」
諸葛亮はすでに死の色の濃い顔に困ったような笑みを浮かべて言った。
「私は…!」
「伯約」
諸葛亮の言葉は別段強い調子はなかったが不思議な響きをもって姜維の言葉を遮った。
「私は、自分の為にお前を降らせ、利用した。お前だけではなく…他の者も。
いくら『国の為』と言ったところで、その罪が軽くなることなどないだろう」
今ここで死に逝くのもそれをを含めて定められた天命なのだ、と。
少しだけ悲しげに目を伏せた。その様は、後悔しているようにも見えた。
「私は…利用されたとは思っていません。」
少し震えてはいるが、しっかりした声でそう言って、姜維はそれまで俯いていた顔をあげた。
「貴方だから、ここまで共に来たんです。
貴方とだったから、同じ夢を見ていきたいと、そう思ったんです」
そう言った姜維の瞳には一点の曇りも見当たらない。
「姜維…」
諸葛亮は、少し驚いたように目を見開いた。そして、

「ありがとう」

姜維の見た彼の最期の微笑みはひどく穏やかなものだった――



諸葛亮が死んだ。蜀の将軍たちは悲しみに暮れ、次々に幕舎をおとなった。
しかし、その中に、一人の姿だけは終始見つかることはなかった。

慌ただしく装備を整える音が幕舎の間に響く。
ただその気配は今からこの地を撤退する軍のものとは明らかに異なるものだった。
姜維はその中によく知った人物の姿を見つけた。
「文長殿、どこへ?」
固い声で魏延に問う。
しかし、何故か彼の答えることは自分には分かっているような気がした。
「俺は、俺の務めを果たしに行く。俺の信念に従ってな」
至極自然に、しかし強い決意を持った声で魏延が答えた。
やはり、と心中で溜息をつく。言葉を発しようとした時
「将軍、準備が調いました」
と、副官らしき将校が伝えた。それに魏延は短く答え、いくつかの指示を出す。
止めたかった。でも出来なかった。
もし止めてしまえば彼は彼ではなくなってしまうような気がしたから。
ならば自分も覚悟を決めよう。
「文長殿」
姜維の呼び掛けに、愛馬の背に乗った魏延が振り返る。
「ご武運を」
胸の前でしっかりと恭手し、自分の精一杯の気持ちをこめてそう言った。
多分別れの言葉になるであろうその言葉を。
「ああ」
満足そうに微笑み、短く一言そう答えると、
魏延は既に整列を終えていた兵士たちに号令を出す。
騎馬の蹄が土煙を生み出し、隊列が動き出した。
一斉に駆け出していく兵士たちの姿を、見えなくなるまで姜維は見送っていた――



最期に微笑んで、でも夢を果たすことはなく、無念のうちに逝った人がいた。
最期まで自分の言葉を曲げず、自分の信念も曲げることなく…そうやって逝った人がいた。

―ああ、そうか―
霞みゆく意識のなかで姜維は自らへの問いの答えを見つけたような気がした。
―あの人たちから私は夢をもらった。あの人たちとだったから共に歩んでいきたいと思ったんだ―

『お前は諦めるのが早い』
不意に、昔魏延の言っていた言葉を思い出した。
―私は少しは強くなれたのかな…―
あの日の貴方の背中に恥じぬようにと常に願ってきました。
私は、そのような生き方が出来ましたか?

『ありがとう』
という言葉と共にかの人が最期に見せた微笑みが脳裏をよぎった。
貴方がみた夢を私は果たすことが出来なかった。
それでも、私は笑ってあなたの許へいくことは出来るのでしょうか?

―瞼が重い―

徐々に増していくその重みに耐え切れず、彼はゆっくりと瞳を閉じた。



躯から、のしかかっていた何かが離れたような気がした。

―いまなら起きられそうだ―

そう思った時、ふと微かな風の気配を感じた。
俯せていた顔を上げる。
そこに立っていたのは柔らかな笑みを浮かべた男だった。
目が合うと、男は手を差し出した。まるで『共に行こう』とでも言うように。
「…一緒に行っても…いいのですか?」
男の表情は変わらない。ただ手を差し出したままたたずんでいる。
恐る恐る手を伸ばす。そしてその手が触れるとき、確かに言葉が聞こえた気がした。

『よく頑張ってくれたな』と――























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お誕生日にRAN殿からいただきました。
正直、未だかつてこんなに誕生日というものに感激したことはない。
な な な な な な な な なん
なんですかこの
素敵小説は。
ダメダダメダダメダ 何度読み返しても泣 け …
ああああああああ!!!!!
あああああああああああああああ!!!!!!
いくら五月蝿いと言われようと私は叫び続けるぞ!
暴れるのを止めないぞ!
そして、いくらやっぱ返してと言われても絶対手放さないぞ!
RAN殿、こんな素敵物語を有難うございます。
貴殿に足向けて眠れません。